スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |

かくして天使は舞い降りた

1963年10月29日 大阪は阿倍野区で生を受けた。
早朝の4時か5時ぐらいの出生だったと聞いている。
長男だが上に姉がいる。待望の男の子だったようで、両親よりも祖母が事のほか喜んでいたらしい。
生後まもなく風邪をこじらせて肺炎に罹った。
体力もない新生児に肺炎は命取りになる病気で、医者は手を尽くしたが「もうこれ以上施しようがありません。あとはこの子の生命力にかかっています」と、いわば見放された状態。
顔は灰色になったまま。熱は下がらず唇はひび割れてパリパリ。脱水症状になってはいけないと祖母が寝ずの看病をしてくれた。
ほとんど両親も諦めかけていたが、祖母だけは絶対に諦めなかったと言う。
ひび割れてパリパリの唇を湿ったガーゼで水分を与え、氷枕を取り替えたりして必死で看病をしてくれた。

病状も一進一退のまま数日が過ぎ、もう在宅看護では限界があると入院させようと決めたその夜中、いつものように祖母が湿ったガーゼで唇を濡らしていて、ウトウトとしかけた時、奇跡が起きた。
湿ったガーゼを俺が自ら吸い始めたと言う。ハッと我に返った祖母はあわててミルクを作って与えたら勢いよく飲み始めた。
家中 火がついたように大騒ぎだった。 夜中だけど医者をたたき起こして往診に。
医者が来るなりの第一声が「考えられない」 
今まで瀕死の赤ちゃんが勢いよくミルクを飲むなんて聞いたことがないらしい。第一、治療らしい治療も出来ていないのに良くなる訳がない。
熱はまだあり、鼻が詰まって呼吸は苦しそうなものの、灰色だった顔色は見る見る赤みを帯びてきて数時間前とは明らかに症状が違う。
「大した生命力や! おばあちゃん、アンタの看病がこの子に通じたんやな」と言い残して医者は後処置を終えた。

この時の事は、いまだに家族で酒を飲んだときに話題として出てくる。
命の恩人の祖母はこの24年後に他界するが、その死に水を取ったのは俺だと言うのも深い縁である。

かくして天使は舞い降りた。

これから俺の波乱万丈の人生が始まるのである。

曾祖父と祖父

俺の実家の稼業は居酒屋を営んでいる。
大東亜戦争の終戦直後の創業だから、今年で60年を超える。地元界隈では老舗と言うより今では最古参の店である。オヤジが2代目だ。

元々、祖父のオヤジ つまり俺の曾祖父(ひいおじいちゃん)の代までは、大阪府南部地方で田畑を所有し結構な資産家だった。
ところが曾祖父は 飲む・打つ・買う の三拍子揃った、大浪費家・稀代の遊び人で、“宵越しの金は持たない” を地で行く豪傑な人物 (曾祖父のDNAはこじんまりと俺に受け継がれて入るのかも知れない)

そんな生活が続くわけがない。気付けば曾祖父一代で資産の全てを失った。
昨日までとは一転、たちまち生活に困り、祖父は小学校の卒業を待たずして酒問屋に丁稚奉公に出た。
12歳ぐらいだったと言うから小学6年か中1ぐらいの年齢である。
根がマジメな祖父は寝る間も惜しんで働いたらしい。苦労に苦労を重ねて両親や幼い弟たちを養い、生活の基盤を確立し晩婚であったが祖母と結婚しその後 現在の大阪市東住吉区あたりで酒屋で独立した。

今と違ってモノのない時代だったから酒屋は大繁盛。従業員も十数名いた。
今でもそうだが、会社組織でもない個人商店で従業員が十数名いる酒屋なんて滅多にない。 “東住吉の金を吸い取る” とまで異名を取ったと言うから相当なものである(オヤジはそう言う家庭環境に生まれたから超ボンボンだったらしい)

このまま大東亜戦争が敗戦濃厚とならなければ祖父は兵隊にとられなかった。
祖父は赤色色盲で徴兵検査では不可。兵隊としては使い物にならないと言う事で、 “金はもっとるが天皇陛下の臣民としては二等国民” などと陰口や非難中傷もあったらしい。
だが戦局は悪化の一途。この際 男なら誰でもいいと言う事で45歳を過ぎて戦地へ駆り出された。折りしも終戦の3ヶ月前だった。

戦争がもたらしたもの

終戦3ヶ月前の召集。
台湾で形ばかりの訓練を受けて赴いた先は満州で、さあ数日後には出撃と言うところで日本が無条件降伏を受け入れ敗戦の報を聞いた。
日本が降伏する数日前には日ソ不可侵条約を破ってソヴィエトが侵攻してきたのを防衛する最前線の守備隊だったが、不幸中の幸いか、祖父は実際の戦闘を経験せずに済んだ。

しかし祖父を待っていたのはソヴィエトの捕虜としてのツライ日々だった。食事もまともに与えられずにシベリヤで重労働の毎日。
これって捕虜虐待にも近い境遇で戦時国際法違反だが、戦勝国はまさにやりたい放題。
俺が幼い頃よく話してくれたのは「毎日血尿が出て、栄養失調で動けなくなって働けなくなるとソ連兵にシベリヤの雪深い原野に連れて行かれ、そこでそのまま置き去りにされるんや。その後連れて行かれた人の姿を見たことはない・・・」
幼な心にソヴィエト憎し! とよく思ったもので、オリンピックなどのスポーツの国際大会等でソ連選手が金メダルを取ったりすると「ボケェ!」と本気で思ったりしたが、今なんか金髪のロシア女を見ると エエのぉ〜 と鼻の下を延ばして股間を膨らませたりするんだから、我ながら節操のなさにあきれるわ!

祖父が戦争に取られてからは、軍需物資として酒から味噌から調味料まで店にある食料品は強制的に全てぶん取られ店は壊滅状態。
従業員の給料や退職金、支払いなどに当てた蓄えはほとんどなくなっていったらしい。事実この数ヵ月後には倒産せざるを得なかった。

戦争は終わったが国からは祖父の消息は “行方不明” との報告しかなく、生死がハッキリするまでは葬式も出せないし、蓄えも少なくなってきたので食っていくためには何かしないといけないと思った祖母が、幸い酒屋だったこともあり酒の仕入れは簡単だったので今の実家の場所で居酒屋を始めた。 

結局、祖父が戻ってきたのは終戦から2年後だった。
玄関で何かカタカタと音がするので、不審に思った祖母が見に行くとガリガリに痩せて憔悴しきった祖父がそこに立っていた。
玄関前のわずか10数センチの排水溝がまたげず、立ち往生している状態だったと言う。それぐらい心身ともに疲れ切っていたのだった。

祖父は身長165センチほどだったが、ガッチリしていて体格が良く、チンコもでかい!
後年、祖母を失くし元気がなくなった祖父は介護が必要になった。オフクロが下の世話などもしていたが、よく「おじいちゃんのオムツ換えようと思ったら、チンコがウンコに突き刺さってるねん!」 (^○^) と言っていたぐらいだから・・・。
確かに小さい頃、祖父と風呂に入ると「でっかいなぁ〜〜」と常々思っていたから、オフクロの言う事はあながち大袈裟に言っているとは思えないのだ (^^♪

俺の性格で、金を持ったら持っただけ使い、酒での失敗も多く、女好きなのは曾祖父(ひいおじいちゃん)のDNAだが、チンコがでかいと言う祖父のDNAだけは受け継がなかったのが唯一の悔やまれるところだ!

祖母〜オヤジ

祖母は 肝っ玉かあさん で、何一つ物おじする事はない。 いわゆる “大阪のオバちゃん” だ。
出身は徳島だけど、ドップリ大阪系遠慮なしのヤリ手ババア! 

その性格をオヤジが継いでいる。
オヤジは大学受験を失敗して、しばらくブラブラしていたらしい。
今で言うニートのはしりだ。定職を持つ事もなく、遊び呆けて当時のミナミ(大阪)では知る人ぞ知る、ある意味危険人物だった。
750ccのバイクを乗り回し、当時流行っていたアルサロの常連客。金はないがホステスのひもみたいな生活をしていて金に困ると言う事はなかったらしい。
750のバイクもある店のホステスに買ってもらったらしいが、祖母には「友達に借りている」とウソをつき続けていたと言う。
俺が4歳の時ぐらいまでバイクがあった事は記憶しているが、いつの間にかバイクはなくなっている。
あまり遊び呆けているので、祖父祖母が「そろそろ落ち着かせないといけない」と言う事で、ほぼ強制的に店の手伝いをさせオフクロと見合いさせたらしい。

その頃、オヤジは写真にハマっていて朝日新聞や毎日新聞の専属カメラマンで不安定な収入ながらも、カメラマンでやってゆくと考えていたらしいが、「そんなヤクザみたいな職はアカン!」と、祖母のツルの一声でもろくもその夢は崩れ去ってしまった。
写真に関して言えば、いまでもウルサイ! 
俺は広告関連の仕事をしているが、俺がディレクションした撮影の写真を見せたら「もっとライティングはこうしたらいい」とか「もう少しこんなアングルから撮ったら商品の良さが出るのに」とか、何かにつけてウルサく言う。昔とった杵柄か???

オヤジが今の職(居酒屋)、を真剣にやりはじめたのは俺が小学校3年生ぐらいの時ではないか・・・。
調理師免許を取得し、開店する夕方まで魚屋で魚のさばき方を勉強させてもらい、仕入れにもこだわった。
オヤジが祖母と似ているところは、自分が気に入らなければ頑として信念を曲げずにやり通す事と有言実行なところだ。
この性格は俺は残念ながら受け継いでいない。むしろ姉の方がその性格を色濃く受け継いでいるように思う。。。


姉と俺

祖母とオヤジの性格は似ている。
気が強く何事にも白黒ハッキリつけないと嫌なタイプで、その性格は俺ではなく姉が色濃く受け継いでいる。
姉はまさしく  “チンコロ姉ちゃん”  祖母、オヤジ、姉の3人が揃うと向かうところ敵なし、3人が通った後はペンペン草も生えないという感じだ。
よくオフクロや親戚からも「アンタと姉ちゃんと性格入れ変わっとったら良かったのに・・・」と言われたものだ。

店の忙しい事もあって、俺は小学2年生までは祖父母の家で育ったが、勝気でシャキシャキしている祖母にはマジで鍛えられた・・・。
公園で遊んでいて、上級生にでもイジメられて泣いて帰ってこようものなら、顔色を変えて 「もういっぺん行ってヤリ返して来い! 勝つまで帰ってくるな!」 と、首根っこをつかんで家をほっぽり出された(ーー゛) 、口答えしようものならヘロヘロになるまで説教された・・・。

あまりにアカンたれな俺を心配するあまり、近くの古武術の道場に無理やり通わされる事になった。
古武術って、今で言うマーシャルアーツだ。 投げアリ、突きアリ、蹴りアリ、関節技アリの総合格闘技。ガリガリで気弱な俺がそんな事出来るわけがないと泣いて訴えたが、聞く耳はなかった。 しかしこの事が後々に大きな意味を持つようになる。

幼少の砌

勝気でイケイケの祖母に育てられガキ大将になったのかと言えば全然そんな事はなく、基本的にはアカンたれ。
だけど回り近所には歳下しかいなかったので、兄貴分みたいな感じで歳下を束ねて遊んでいた。無理やり通わされるようになった古武術道場もたった2回で辞めた。

幼稚園に通う事になり、実家からは近いが、祖父母の家で生活しているからかなり遠い幼稚園だった。
当然、周りは知らない奴ばっかりで入園して1週間ほどは心細い幼稚園生活だったように思うが、この頃から性格が変貌してゆく。
知らない奴ばっかりの中で友達を作るには、自分から何かアクションを起こしていかないといけない。何か気を引くために自然と出た事はオモロイ言動をとる事。
性格が変貌したと言うより、元々あった素養が、周りの環境に触れて出てきたとも言える。

本来、恥ずかしがり屋で引っ込み思案だったのが、先生の話にチャチャは入れるわ、スクールバスの中では上級生も居るのに我が物顔でおどけるわ、昨夜テレビで見たことをネタにギャクかますわ・・・この頃から、他人をいじくり回してネタにするというスベも身につけた。 “ オモロイ奴 ” とクラスでは人気者になった。

幼稚園の年少から小学校の6年間、担任の先生からはいつも同じ事を言われていた。
「みんなを笑わせて陽気で楽しい子だが、落ち着きがない」
“ 三つ子の魂 百まで ” と言うが、この性格はいまだに引きずって、今でも俺の代名詞になっている (^^♪
この性格のお陰で、いじめられるという事はなかった。
ダウンタウンの松っちゃんも 「俺は小さい頃はいじめられっ子だったが、いじめられないようにするには何かオモロイ事をしないといけない。と言う思いがこんな俺にした」 と言っていたが、まさにそれを肌で感じて実践していた事になる。
アカンタレだった俺が、幼稚園に入ってから変わっていく様子を特に祖母は嬉しく思っていたらしい。


幼少の砌 2

物心ついたときから食べ物の好き嫌いが激しかった。
パン類で食べれるものは、チョコレートパンかメロンパン、ジャムパン、クリームパンぐらいでサンドイッチは食べれなかったし、牛乳など乳製品もダメ。肉類が食べれない。食べれる物でも料理の仕方によって食べれないものもたくさんあった。

例えば、すき焼きをしても食べれる食材は豆腐、野菜、麩、糸コンニャク・・・肉なんかとんでもない。 麩ばっかり食べるので姉からは「お前は鯉か?」  とよく言われたし、カレーでも肉をよけるので姉が横から肉を取りながら「コイツは美味しいモンは何一つよ〜食べれんねんなぁ」 と嫌味を言われ続けた。

野菜と魚類では嫌いなものはないので 「肉ばっかり食べるよりはエエけど・・・」と祖母からは言われていたが、たまの日曜日に家族で外食に出かけたら食べたいものがない・・・と言うよりは食べれるものがなかった。
姉は洋食系が好きで、外食となればグラタンやハンバーグ、ステーキ類を食べたがる。
俺はと言うと・・・麺類か丼物ぐらいしかない。
「そんなん家で食べれるやん! お前と来たら食べたいモンも食べられへんからオモロないわ」 と姉。
「お姉ちゃんやねんから我慢したれ!」 とオヤジの鶴の一声でブスゥ〜〜とふくれっ面した姉の姿を見て、幼な心によく卑屈になったものだった。

しかし食べ物の好き嫌いは激しかったが虚弱体質でもなく、体つきはガリガリだったが風邪一つ引くわけでもなかった。
運動はセンスがないわけではないが、一番の苦手は走ることだった。とにかく遅い。
幼稚園の2年間と小学校6年間で、運動会の徒競走で6人走って5位が最高。
食べ物の好き嫌いが多く、走らせたら遅い、恐がりで気が弱くアカンタレだったが、やる事なす事が良くも悪くも目立つ存在。それが俺の幼稚園時代だった。

お笑い3人組

祖父母の家で生活しているが、小学校は実家の学区内へ通う。
小学校までは実家からは子供の足で約20分ほどだが、祖父母の家からは50分以上かかる。
私立の小学校ならまだしも、都会で公立の学校まで徒歩50分はキツイと思うが、2年生に実家に帰るまで1年間は通い続ける事になる。

幼稚園の時も祖父母の近所の幼稚園ではないから、入園当時は誰一人知り合いはいなかったが、小学校へ入学した時も誰一人 幼稚園時代からの友達はいなかった。
クラスには同じ幼稚園時代からの友達同士が喋っていたりしていたのを羨ましく眺めていた記憶がある。 
それでも卑屈になったり沈んだりという事はなかった。幼な心に “そんなモン” かな、とも思っていたし数日もしないうちに幼稚園時代に培った “いちびり” な性格が徐々に出てくるようになる。

たまたま同じ様な性格のヤツも俺のほかに2人いて、入学して3〜4日ほどで先生からつけられたアダ名は お笑い3人組
自分で言うのもおこがましいが、入学時は誰一人友達がいなかったのが、数日でクラスの人気者になった。

スポーツも別段得意ではない、勉強も出来るわけでもない。
学生時代はず〜と算数・数学が不得意だったが、小学1年からそうだった。特に応用問題(文章問題)なんかでは、例えば ミカンが3個あります。 リンゴが4個あります。あわせて何個ですか? みたいな問題があっても、 「そんなん種類の違う果物なんか合わせられへんやん! 合わせるってゴチャ混ぜにしてジュースにでもするんか??」 と屁理屈を言って、問題自体がオカシイと思うタイプだった。 要は揚げ足取りなだけ・・・(^^♪

そんな奴がクラスで人気者になるには、とにかくオモロイ事。
意識してそうしていたわけではないが、自然とそうしなければいけないと言う義務感を持っていたと思う。明石家さんまではないが、常に喋ってないとじっとしてられない子供だった。

勉強嫌い

小学校の1〜2年までは宿題らしい宿題はなかった。(いま小学校の息子を見ていると、毎日のように宿題があって可哀想だなぁと思う)
夏休みの宿題「夏の友」や、自由研究なんか完璧にやった記憶がない。。。
それでも担任の先生は怒らなかったし、今から思えばかなり大らかな先生だったように思う。『佐藤先生』と言って、もうすでに定年間近なお爺ちゃん先生だった。
もう36年も前の話。恐らく先生はもう亡くなっているだろうと思う。

1年生の頃までは祖父母の家で育ったこともあって、祖父母も「勉強せぃ〜〜!」 とは一言も言わず、どちらかと言えば 「勉強するヒマがあったら遊びに行ってこ〜い!」 と言うタイプだった。

幼少の頃の習慣というのは恐ろしいもので、この頃のことが引きずっているのか、いまだに勉強は嫌いである(^^♪ きっとこの頃に勉強していれば人生変わっていたかもしれない・・・。
幸か不幸か、俺の場合はいまだかつて あの時もっと勉強しておけばよかった とか、勉強しなかった事で後悔したという事はない。
それは遊びの中で自然と身についた、俺の処世術だったのかもしれない。

2年生から実家に戻り、特にオヤジが勉強に関してはうるさかった。
2年生からは九九を習うが、なかなか覚えられない。 と言うか覚える気がない。
学校では覚えるまで毎日居残りさせられたり、家では全段の九九を言うまで外へは出してもらえなかったり、半ベソをかきながらと言う思い出がある。 恐らくこの時のトラウマが算数嫌いにさせたのだと思う。。。


この頃に野球と出会う。
放課後にみんな何やらゴムボールでやっているが、何をしているのか分からない。
下から投げたボールをジャンケンのグーで打って右側に走っている。
「お前も野球やろ〜〜」と誘われてルールも分からず、初めて野球をした。
実は俺の実家の居酒屋には、オヤジの知り合いで当時 南海ホークスのスカウトだった堀井さんと言う人に連れられて、野村さん(現・楽天の監督)が来た事がある。
俺は野村さんとキャッチボールをした事があるらしいが、全然覚えてないっ!

何だかルールはややこしくて訳が分からなかったが、段々と野球にのめり込んで行く事になる。 

柔道少年

とにかく食べ物の好き嫌いが多かった俺は、給食の時間は学校生活の中では一番苦痛の時間だった。
2年生までは「嫌いなものは残してもいい」と言われていたが、3年生からは「嫌いなものも食べなさい」と言う先生だったので、苦痛の度合いがさらに増した。
牛乳も全部は飲めないなら、せめて半分は飲めと言われて、目に涙をためながら息を止めて飲んだ。
みんなはさっさと食べ終わって、校庭で野球をやったり三歩当てをしたりしているが、俺は5時間目が始まる寸前までモゴモゴやっていたような気がする。

この頃にオヤジに「柔道やってみないか」と言われる。
実家の居酒屋によく来るお客さんで柔道の先生をやっている人からの誘いだった。
アカンタレな俺は嫌がるとオヤジは思っていたらしいが、二つ返事で「やってみたい」と言い出したのでビックリしたと後述している。

ガリガリで何をするにも動作が遅く闘争心など無かった俺だけど、幼稚園の頃 祖母に古武術道場に無理矢理通わされた経験があったし、小さい頃にTV番組「柔道一直線」を見ていたし、ちょうどその頃TVアニメで「柔道賛歌」もやっていたので、どんなもんか?と言う好奇心からであった。
いま思えば、この頃から格闘技への憧れがあったのだとつくづく感じる。


道場に連れられて初めての稽古の日の記憶は未だ残っている。
ブッカブカの道着で受身の練習がメインだったが、寝技の練習で小学校1年の子に押さえ込まれたら身動きが取れない。。。。(-_-;)
初めてのことなのでどうやったらいいのか分からない、という事もあったが周りからは嘲笑のタネだった。
「アイツ3年やろ?? あんな1年のチビに押さえ込まれて何の身動きもとれないなんて、何ちゅう弱いやっちゃ!」
押さえ込まれて下になりながら、そんな声が耳に入ってくるとよけいに萎縮してしまう。
さらに、通いだして色々な技の掛け方を教えてもらうが、相変わらず1年には投げ飛ばされる始末。。。。
子供の頃のスポーツって、最初が肝心。
一番最初に「コイツは弱い」とか「ダサイ」とか思われてレッテルを貼られたら、ず〜とそのイメージが付きまとう。
柔道は始めてみたものの、アカンタレが際立つ最悪のスタートだった。

| 1/21PAGES | >>