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祖母〜オヤジ

祖母は 肝っ玉かあさん で、何一つ物おじする事はない。 いわゆる “大阪のオバちゃん” だ。
出身は徳島だけど、ドップリ大阪系遠慮なしのヤリ手ババア! 

その性格をオヤジが継いでいる。
オヤジは大学受験を失敗して、しばらくブラブラしていたらしい。
今で言うニートのはしりだ。定職を持つ事もなく、遊び呆けて当時のミナミ(大阪)では知る人ぞ知る、ある意味危険人物だった。
750ccのバイクを乗り回し、当時流行っていたアルサロの常連客。金はないがホステスのひもみたいな生活をしていて金に困ると言う事はなかったらしい。
750のバイクもある店のホステスに買ってもらったらしいが、祖母には「友達に借りている」とウソをつき続けていたと言う。
俺が4歳の時ぐらいまでバイクがあった事は記憶しているが、いつの間にかバイクはなくなっている。
あまり遊び呆けているので、祖父祖母が「そろそろ落ち着かせないといけない」と言う事で、ほぼ強制的に店の手伝いをさせオフクロと見合いさせたらしい。

その頃、オヤジは写真にハマっていて朝日新聞や毎日新聞の専属カメラマンで不安定な収入ながらも、カメラマンでやってゆくと考えていたらしいが、「そんなヤクザみたいな職はアカン!」と、祖母のツルの一声でもろくもその夢は崩れ去ってしまった。
写真に関して言えば、いまでもウルサイ! 
俺は広告関連の仕事をしているが、俺がディレクションした撮影の写真を見せたら「もっとライティングはこうしたらいい」とか「もう少しこんなアングルから撮ったら商品の良さが出るのに」とか、何かにつけてウルサく言う。昔とった杵柄か???

オヤジが今の職(居酒屋)、を真剣にやりはじめたのは俺が小学校3年生ぐらいの時ではないか・・・。
調理師免許を取得し、開店する夕方まで魚屋で魚のさばき方を勉強させてもらい、仕入れにもこだわった。
オヤジが祖母と似ているところは、自分が気に入らなければ頑として信念を曲げずにやり通す事と有言実行なところだ。
この性格は俺は残念ながら受け継いでいない。むしろ姉の方がその性格を色濃く受け継いでいるように思う。。。


戦争がもたらしたもの

終戦3ヶ月前の召集。
台湾で形ばかりの訓練を受けて赴いた先は満州で、さあ数日後には出撃と言うところで日本が無条件降伏を受け入れ敗戦の報を聞いた。
日本が降伏する数日前には日ソ不可侵条約を破ってソヴィエトが侵攻してきたのを防衛する最前線の守備隊だったが、不幸中の幸いか、祖父は実際の戦闘を経験せずに済んだ。

しかし祖父を待っていたのはソヴィエトの捕虜としてのツライ日々だった。食事もまともに与えられずにシベリヤで重労働の毎日。
これって捕虜虐待にも近い境遇で戦時国際法違反だが、戦勝国はまさにやりたい放題。
俺が幼い頃よく話してくれたのは「毎日血尿が出て、栄養失調で動けなくなって働けなくなるとソ連兵にシベリヤの雪深い原野に連れて行かれ、そこでそのまま置き去りにされるんや。その後連れて行かれた人の姿を見たことはない・・・」
幼な心にソヴィエト憎し! とよく思ったもので、オリンピックなどのスポーツの国際大会等でソ連選手が金メダルを取ったりすると「ボケェ!」と本気で思ったりしたが、今なんか金髪のロシア女を見ると エエのぉ〜 と鼻の下を延ばして股間を膨らませたりするんだから、我ながら節操のなさにあきれるわ!

祖父が戦争に取られてからは、軍需物資として酒から味噌から調味料まで店にある食料品は強制的に全てぶん取られ店は壊滅状態。
従業員の給料や退職金、支払いなどに当てた蓄えはほとんどなくなっていったらしい。事実この数ヵ月後には倒産せざるを得なかった。

戦争は終わったが国からは祖父の消息は “行方不明” との報告しかなく、生死がハッキリするまでは葬式も出せないし、蓄えも少なくなってきたので食っていくためには何かしないといけないと思った祖母が、幸い酒屋だったこともあり酒の仕入れは簡単だったので今の実家の場所で居酒屋を始めた。 

結局、祖父が戻ってきたのは終戦から2年後だった。
玄関で何かカタカタと音がするので、不審に思った祖母が見に行くとガリガリに痩せて憔悴しきった祖父がそこに立っていた。
玄関前のわずか10数センチの排水溝がまたげず、立ち往生している状態だったと言う。それぐらい心身ともに疲れ切っていたのだった。

祖父は身長165センチほどだったが、ガッチリしていて体格が良く、チンコもでかい!
後年、祖母を失くし元気がなくなった祖父は介護が必要になった。オフクロが下の世話などもしていたが、よく「おじいちゃんのオムツ換えようと思ったら、チンコがウンコに突き刺さってるねん!」 (^○^) と言っていたぐらいだから・・・。
確かに小さい頃、祖父と風呂に入ると「でっかいなぁ〜〜」と常々思っていたから、オフクロの言う事はあながち大袈裟に言っているとは思えないのだ (^^♪

俺の性格で、金を持ったら持っただけ使い、酒での失敗も多く、女好きなのは曾祖父(ひいおじいちゃん)のDNAだが、チンコがでかいと言う祖父のDNAだけは受け継がなかったのが唯一の悔やまれるところだ!

曾祖父と祖父

俺の実家の稼業は居酒屋を営んでいる。
大東亜戦争の終戦直後の創業だから、今年で60年を超える。地元界隈では老舗と言うより今では最古参の店である。オヤジが2代目だ。

元々、祖父のオヤジ つまり俺の曾祖父(ひいおじいちゃん)の代までは、大阪府南部地方で田畑を所有し結構な資産家だった。
ところが曾祖父は 飲む・打つ・買う の三拍子揃った、大浪費家・稀代の遊び人で、“宵越しの金は持たない” を地で行く豪傑な人物 (曾祖父のDNAはこじんまりと俺に受け継がれて入るのかも知れない)

そんな生活が続くわけがない。気付けば曾祖父一代で資産の全てを失った。
昨日までとは一転、たちまち生活に困り、祖父は小学校の卒業を待たずして酒問屋に丁稚奉公に出た。
12歳ぐらいだったと言うから小学6年か中1ぐらいの年齢である。
根がマジメな祖父は寝る間も惜しんで働いたらしい。苦労に苦労を重ねて両親や幼い弟たちを養い、生活の基盤を確立し晩婚であったが祖母と結婚しその後 現在の大阪市東住吉区あたりで酒屋で独立した。

今と違ってモノのない時代だったから酒屋は大繁盛。従業員も十数名いた。
今でもそうだが、会社組織でもない個人商店で従業員が十数名いる酒屋なんて滅多にない。 “東住吉の金を吸い取る” とまで異名を取ったと言うから相当なものである(オヤジはそう言う家庭環境に生まれたから超ボンボンだったらしい)

このまま大東亜戦争が敗戦濃厚とならなければ祖父は兵隊にとられなかった。
祖父は赤色色盲で徴兵検査では不可。兵隊としては使い物にならないと言う事で、 “金はもっとるが天皇陛下の臣民としては二等国民” などと陰口や非難中傷もあったらしい。
だが戦局は悪化の一途。この際 男なら誰でもいいと言う事で45歳を過ぎて戦地へ駆り出された。折りしも終戦の3ヶ月前だった。

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